はじめに
日本では、油絵というと、モネやゴッホなど印象派・後期印象派の作品を真っ先に思い浮かべる人は多いと思う。絵画教室で教える油絵も、印象派以降の絵具の使い方に則したものが普通ではなかろうか。画集などと違って、ゴッホの作品の実物から与えられるイメージはもっと荒々しいマチエールであり、絵具の隙間から地塗りどころか、布の繊維まで見えていることがある。現在市販されているキャンバスはあまりにもよくできすぎているために、かえって勢いが削がれてしまうのではないかと思う。瘤のほとんどない平滑な画布とPVAの柔らかい目止め、アクリルエマルジョンの綺麗な白い地塗り、それ自体は非常に良いものであるが、もっと粗野で固くて、内面からわき上がってくる勢いのあるキャンバスがあってもいいのではないか。そいうわけで、本項ではゴッホの作風に合わせたキャンバスを作ってみたい。
このキャンバスを作成する上で参考にしたのは、NHK新日曜美術館「後期印象派の巨人たち(1)アルルのゴッホ」(2003年01月19日放送)内で紹介されていた、シカゴ美術館によるゴッホのキャンバスの再現である。詳細な文献資料は見つけられなかったので、事実関係の信憑性は不明だが、学術的に正確なものを再現する必要はないので気にしないことにする。番組ではアルル時代のゴッホとゴーギャンは、コーヒー豆を保管する為のジュートを入手し、切って二人で使用したそうだ。硫酸バリウム(重晶石)と膠のみので地塗りしていた。硫酸バリウムは屈折率の低い体質顔料で、油性絵具の中にあると透明化してしまう。膠と塗布すれば白色になるが、上に油絵具の絵画層がのれば、地塗りの明度は控えめなものになるであろう。番組の話では、画面に塗った油絵具から地塗りに油が染み出し、その濡れ色によって地塗りと色彩の間で自然な色の移行ができたという。
ゴッホ作品の実物を観察した上で、絵具隙間から茶色い布地らしきものが見えていることがある点。それが生成りの色ではなく、オレンジ色に近い赤茶けたものに見えることがあった。蜜蝋や樹脂による裏打ちの影響で布の色が変色している可能性がある。制作された当初は、もっと鮮やかで明度の高い作品だった可能性は高いと思われるが、結果的には経年の変化がかえって魅力になっていのかもしれない。
全ての工程で、あまり細かいことを気にせずに大胆に作業するのが良いと思う。丁寧にやりすぎると、逆に魅力を失いかねない。地塗りの顔料には白を加えずに、炭酸カルシウム等の体質顔料のみを使用する。印象派の画家はつや消しの画面を好む傾向があったので、本来は吸収性の地塗りが相応しいと言える。しかし、印象派風の描き方では、インプリマトゥーラなどで吸収性を事前に調節するような手間をかけないことが多く、地塗りが絵具の油を吸いすぎて、丈夫な塗膜を作ることができない。そこで、地塗りに少量の油を加えて半油性地にしてみた。この方が市販のキャンバスに描き味が似るので初心者でも戸惑わずに描ける。また、夏に湿度が高くなる日本では、カビの発生が抑制してくれる可能性がある。ただし、通常の半油性地よりは油の量をかなり減らしている。
画布
画布を入手せねばならない。通常のキャンバスは亜麻(リネン)であるが、麻系の繊維には黄麻(ジュート)、苧麻(ラミー)、大麻(ヘンプ)など、様々のものがある。綿系の繊維にも丈夫な製品はあるが、乾性油に対して耐久性において麻の方が優れているようである。画用の生画布は高価なものが多いが、布製品によくある瘤などが綺麗に取り除かれた、たいへん平滑な製品となっており、それだけの価値があるものである。だが、今回はもっと安い、瘤など平気で残っている布を使う方が趣旨に合っているであろう。真っ先の候補はジュートである。絵画用にはあまり名前を聞かないと思うが、麻系の繊維の中では最も多く生産されているらしい。たいへん目が粗く、30号より小さいと荒すぎるかもしれない。ゴッホの作品でも特に有名な「ひまわり」は30号前後である。亜麻も候補に挙がる。画家用の亜麻画布は綺麗だが、ネットオークションなどで売られている安い画布の場合は、もっと粗っぽくて粗野な感じのものが多い。漂白された白い布ではなく、「生成り」という薄茶色の状態のものを購入する。その方が丈夫だし、布地の色も今回の趣旨に沿う。※写真はジュート。
布が手には入ったら、木枠に張って膠引きする。その方法は「生画布を張り、膠引きする方法」を参照せよ。膠引きの目止めをしてから、地塗りをするか、それとも目止めなしでいきなり地塗りしてしまうか、この辺は迷うところであるが、膠引きしてから方が無難であると思う。その方が耐久性もよくなるであろう。膠引きなしは上級向けである。
地塗り
地塗り塗料をつくるにあたっては「半油性地」の通りに行なうので、手順はそちらを参照せよ。ただし、材料は下表に従う。
材料名 | 重量比 | 例 |
---|---|---|
膠液 | 1.5 | 150g |
白亜(ムードン) | 2 | 200g |
サンシックンドリンシード油 | 0.2~0.3 | 20~30g |
卵黄 | 1個 |
顔料は白亜(炭酸カルシウム)、石膏(硫酸カルシウム)を使用する。地塗り用の炭酸体質顔料と膠液、乾性油、黄卵などを混ぜて半油性地を作ると、写真のような色合いの塗料ができる。濡れている間は暗い色をしていても、乾燥後には明るい白色に戻る。顔料によっては乾いてもある程度の透明度を保ったまま乾燥する場合もあり、象牙のようなやわらかい色合いの地塗りができる。この自己主張しない地塗りの色が、市販のキャンバスと大きく異なる。白亜は国内メーカーでは「ムードン」の名称で売られていることが多く、下地用と仕上げ用がある。下地用は白さが控えめであり、その点が今回の主旨には適していると思われる。
件の番組ではバリウムと膠液であったが、若干乾性油を追加することにした。膠液だけでは日本の気候では黴が発生しやすく、また、ゴッホ風の描き方をするときには、インプリタトゥーラ層などは施さないであろうから、あまり油を吸収しすぎても描きにくくなるであろう。
広い刷毛で1層または多くても2層に留めて塗るとよいか思う。目が粗すぎて孔がある場合はヘラか何かで目の中に押し込んでもよい。孔があっても気にしない、という考え方もある。
補足
吸収性が強いので、絵具層の油分が少なくなり、画面の堅牢さを損なう可能性がある。艶消しの画面を求めすぎずに、充分に乾性油を使って描くのがいいと思う。地塗りを体質顔料のみで行なっているので、経年で暗変する度合いが大きい、それはある意味、意図通りなので、経年での変化を予測しながら描くといいと思う。いっそのこと19世紀の方法で裏打ちまでして、地塗りを変色させるのもありかもしれない。
ゴッホの名を出してはいるものの、応用とアレンジで、モネやゴーギャンなど他の印象派からポスト印象派のキャンバスを再現できる可能性がある。それらに限らず、ルネサンス期からバロック期の巨大なカンバス画も、現在の綺麗なキャンバスから比較すると荒々しいものに描かれていることがある。ナショナルギャラリーのルーベンス作、ティントレットの大作など、支持体自体がかなりごつごつしている。
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