ヴェネツィアテレピンという画用液がある(ベネチアテレピン、ヴェネシャンターペンタインとも)。テレピンというと揮発性油をイメージするかもしれないが、ヴェネツィアテレピンは精油を分溜する前の、樹脂と精油が混ざった状態(バルサム)の松脂を指す。樹木から採りだしたドロッとした松脂と思って頂ければよい。粘度が高く、乾燥が遅いので、これを油彩画の画用液に含めると滑らかな筆致になる。屈折率が高いので、描画層の透明度や光沢感が増すと言われる。ただし絵画用の媒材としては、それ単体では脆いものであり、あくまで乾性油に対して部分的に添加するにとどめた方がよい。
バルサムは樹木などの植物から析出する粘性の液体で、樹脂と精油が混ざり合った状態のものである。バルサムの世界は非常に広く、様々の樹種から様々の性質のバルサムが得られ、活用されている。しかし、画家の画用液として活用されているのは、ヴェネツィアテレピン、ストラスブルクテレピン、カナダバルサムの3種類のバルサムである。通常の画材店で販売されているのはヴェネツィアテレピンである。本項ではヴェネツィアテレピンを中心にこの3つのバルサムについて、私が把握していることを列記する。
針葉樹のバルサムから揮発油であるテレピン精油を蒸溜によって取り出すと、ロジンという固形樹脂が残る。一般的にはこのロジンのことを松脂と呼ぶことが多いであろう。弦楽器の弓に摩擦調整の為に塗ったり、粉体はすべり止めとして活用される(野球のピッチャーが握りしめている袋に入っている粉である)。
ヨーロッパカラマツの木芯部から採取される
ヴェネツィアテレピン(またはベネシャンターペンタイン等)は、チロル地方をはじめとするヨーロッパカラマツの木芯部から採取される松脂であるが、交易の場であったヴェネツィアの名を冠してヴェネツィアテレピンと呼ばれるようになったようである。カラマツはマツ類の中では珍しく落葉樹であり、我々がふつう想像するアカマツやクロマツなどとは雰囲気の異なる樹木である。松脂というのはたいていは、木の表面に傷を付けて採取するものであるが、ヨーロッパカラマツの場合は、幹に孔を開けて木芯部から取ることができるようだ。樹木は樹皮の周辺が活動の中心で、中心部はいわば死んでいるような状態あり、私が試した範囲でも多くの松類は芯部にドリルで孔を開けても樹液はほとんど出てこなかった。樹皮を削って得る場合やゴミが大量に混入するし、揮発して固くなったり白濁したりなどするものである。そのようなことを総合するに、ヴェネツィアテレピンの特徴は木芯部から取れるというところにあるかもしれない。その様子は以下の映像で見ることができる。
Lärchenharz-Gewinnung from Austrian Commission for UNESCO on Vimeo.
次に樹皮の直下で取る様子は以下の動画を紹介する。たぶんブラジルあたりのロジン採集の現場の映像であるが、ブラジルもロジン供給原であるらしい。
このような樹脂採取の様子を見る限り、真性のヴェネツィアテレピンというものは木芯部から採集されるからこそ、バルサムの状態で画用液となり得るのではないか、という予感はある。
ところが実際は、さまざまな状況から推察するに、現在、市場で流通しているヴェネツィアテレピンは、ヨーロッパカラマツの木芯部から採取されたバルサムではなく、中国産などの安定して供給されているロジンをテレピンで再溶解させたものであるようだ。これは複数の証言を得た他、クレマーピグメント社、Natsural Pigments社等のwebサイトにも記述されている。伝統材料ではよくあることだが職人が減少したり、現状で採算が合わなくなったりなどの理由が想像される。いずれにしてもかつて存在した本物のヴェネツィアテレピンを入手するのは難しい。ドイツのクレマーピグメントでは本物と思われるヴェネツィアテレピン(ラーチバルサム)が販売されているが、(おそらく引火性の問題で)日本には発送してもらえなかった。
そうすると気になるのはロジンを再溶解したヴェネツィアテレピンと、木芯部から取ったバルサムの違いがどれほどのものになるか、という点である。光沢や透明感、耐久性、使用時の筆運びの違いなど気になる点は多い。代替品として充分なものなのか。両者を比較して具体的な違いを明らかにできればよいが、本物のヴェネツィアテレピンがまず手に入らない。個人的な意見としては、画用液全体に占めるバルサムの量は元々少ないので、それほど神経質になる必要はないとは思うものの、ヴェネツィアテレピンの名で売られている商品が、説明とはまほぼ異なる材料であることは知っておいた方がいいような気がする。冷静に考えると、画用液にロジンを加えているだけなのである。皮膜の耐久性では脆くなるし、画用液の粘性調整として加えるとしたら、純粋なオレオレジンには及ばないであろうし。
以下は数十年前に購入したいうヴェネツィアテレピンの缶を最近になって開封したときの動画である。年代からするに本物のヴェネツィアテレピンバルサムであろう。数十年前のものなので、この状態が本来の製品の常態かは不明であるが、独特の流動性が感じられる。
ロジンをテレピン精油で溶かしてバルサムを作る方法
現在のヴェネツィアテレピンはロジンをテレピン精油などの溶剤で再溶解させているということがわかってきたが、ロジンとテレピン精油の割合など、各社で異なっているようである。見た目の色も異なるので、使用しているロジンの樹種も異なるかもしれない。市販の粉末ロジンなどを溶かすと赤味の濃いバルサムになるが、透明になるよう化学処理されたロジンというものもあるらしい。テレピン精油の割合は流動性に直結していると思われる。精油の量が多ければ流動性が高く、少なければ低い、ということになるかと思うが、実際メーカーで異なっている。ターレンス社のベネチアテレピンは溶剤にホワイトスピリットを使用していることがラベルの表示でわかるが、確かに石油臭がする。
以下にロジンをテレピンで溶かして、現在市販されているようなヴェネツィアテレピンを作る方法を紹介する。自作する意味があるかどうかはわからないが、何らかの特別なロジンを入手したときなどは、それを使ってバルサムをつくることができる可能性はある。ただし、楽器用のロジンには音の響きをよくするために添加物が入っていることがあるようだからよく確認した方がよいと思う。
ロジンはできるだけ細かく砕いておいた方がいいと思う。荒い粉末だと粒のようなものが残って、満遍なく溶けるまでに多くの日数を必要とする。逆に細かくし過ぎると、表面積の増加により初期の吸油量が多くなって、少ないテレピン精油の量で溶かすことが困難になるかもしれない。空き瓶などに細かくしたロジンを入れて、ロジン90%に対してテレピン精油10%を目安に精油を加える。精油が足りないように感じるかもしれないが、気長に待っているとやがて全体に浸透して濡れ色になるであろう。精油の量は10~20%くらいで調整できるかと思う。溶剤はターレンス社のようにペトロールなど石油系のものも使えるかと思う。ただしペトロールは一般的にテレピン精油より溶解力が低いとされる。テレピン精油自体も製品によって溶解力が異なるようなので、場合によっては溶剤の量を調整しなくてはならない、かもしれない。
シュトラスブルクテレピン、カナダバルサム
シュトラスブルクテレピンはヨーロッパモミ(Abies alba)から、カナダバルサムはバルサムモミ(Abies balsamea)から採取されるバルサムである。いずれも被膜強度や乾燥性がヴェネツィアテレピンよりも優れているとされる。もしバルサムを主体とした処方を採用するとしたら、この2つなら可能性はあるかもしれない。個人的には油彩画は乾性油が主役であり、バルサム単体で使用するというのはお勧めはしないが。シュトラスブルクテレピン一時期、国内でも入手できた時期があったが、現在は難しい。ヨーロッパから購入しようにも、おそらく引火性の問題で日本へは発送してもらえない。カナダバルサムは買えなくもないが、徐々に入手が難しく、しかも値段も高くなってきている。正直検証は困難である。今ところ、ヴェネツィアテレピンのように固形物を再溶解させて作っているという話は聞かない。
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