樹木は傷が付くと、保護や修復の為に樹液を出す。樹種によって様々な性質の樹液が得られ、人類は幅広い用途に活用してきた。本ページでは、絵画技法で重要な役割を果たしている樹脂について概要を述べる。近年は天然の樹脂に似せて作られた合成樹脂が存在し、絵画用途でも既に合成樹脂の方が主流と言えるが、本項では天然樹脂のみを扱う。
なお、今から概要を記述してゆくわけだが、樹脂の名称や用語などは曖昧な使われ方をしながら発展してきた経緯もあり、用法が混乱している。他の分野でも多かれ少なかれ同じようなことはあるが、天然樹脂に関してはとりわけその傾向が強い。したがって、用語、名称などの厳密さには大らかな気持ちで対応してもらえればと思う。
なお、樹皮から同じように採れるものにゴムがあるが(水彩絵具の媒材などに使われるアラビアゴム等)、ゴムは水溶性なのに対し、樹脂はアルコールやテレピンなどの溶剤にしか溶けない点が大きな違いである。
天然樹脂はダンマル、マスチック等の軟質樹脂と、コーパル、琥珀などの硬質樹脂に分類される。軟質樹脂はテレピンなどの溶剤に容易に溶かすことができ、扱いやすい。描画時に使用すると、絵具の伸びを良くし、光沢を与える。硬質樹脂は使用できる状態にするまでが難しいが、描画に使用すれば堅牢で、湿気にも強い画面を作る。硬質樹脂と言っても、コーパルはアルコールにはあっさり溶けてしまう。
現存樹脂、化石樹脂という分類もある。現存樹脂は生きている樹木から採取した樹脂であり、ダンマル、マスチックなどがこれにあたる。化石樹脂は太古の樹脂が固化した琥珀、またはコーパルと呼ばれる琥珀になる手前の半化石樹脂を指す。なお、生きている樹木から採取される硬質の樹脂もコーパルと呼ばれる。
バルサムは幾種類かの針葉樹の樹木から採った樹液で、樹脂と精油との混じり合った状態の分泌物。ヴェネツィアテレピン、カナダバルサム、シュトラスブルクテレピンが絵画用として知られている。
ニスは、樹脂をアルコールで溶解したアルコールニスと、精油または乾性油に溶かしたオイルニスに大別される。オイルニスは、テレピン等の揮発性の精油による場合と、乾性油に溶かす場合がある。油絵などの現代の絵画用途では、アルコールニスが話題になる機会が少ないため、もっぱら精油か乾性油かという違いが問題となる。どちらかというと、テレピンかアルコールに溶いた揮発性ニスと、乾性油に溶いた非揮発性のニスの2種類に大別されることの方が多い(『絵画材料事典』のニスの項など)。ただし、乾性油のニスは精油で希釈されるし、描画用ニスでは精油と乾性油と樹脂を使いやすい配合に調節することが多い。
ダンマル樹脂
ダマール、ダンマーとも表記。英語はDamar、Dammar。東南アジアで、フタバガキ科のサラノキ属などから採取される軟質の現存樹脂。インドネシアのスマトラ島から採れるものが有名。古典技法というとこの樹脂を思い浮かべてしまうが、ヨーロッパで使用されるようになったのは19世紀以降である。マスチックなどを使用しているときに湿度の高い環境で起こるブルーミング(白濁現象)が起こり難いと言われる。マスチックに比べてとにかく安い。
一般的な使用法は、テレピンなどの揮発性溶剤に溶かしてダンマルワニスとして使う方法である。ダンマルはテレピンにはよく溶解するが、アルコールには溶けない。通常はダンマル1に対しテレピン2、あるいは樹脂の濃度30%でニスを作ることが多い。市販されているダンマルニスもほとんどがこの割合である。実際のやり方は「ダンマルニスの作り方」で紹介する。ダンマルニスは様々な使用用途が考えられる。乾性油と混ぜて描画用メディウムを作ったり、テンペラの媒質の材料、保護ワニス、加筆用ワニスとして使われる。ダンマル樹脂はもともと丈夫な皮膜を作るわけではなく、単体で使うと時間の経過とともに黄変したり脆くなったりする。1:3~4のダンマルワニスは油絵の保護ワニスとして使用できる。一回目の塗りがよく乾燥してから、二回目を塗る。作品とワニスを暖かいところにおき、柔らかい筆で塗布すると、ワニスの伸びもよく、テレピンの曇りなども起こらない。二十年ぐらい経つと、ダンマルワニスの層は黄変してくるが、テレピンで再び溶かすことのできる性質を利用して、また新たに塗りなおすことがでる。加筆用ワニス(ルツーセ)としては、テンペラにほんの少しダンマルワニスを含めて、これを加筆しようとする画面に塗布する。画面が完全に乾いていたならば、こうして塗布すると、画面の色は濡れた状態となり、上に塗る絵具の付き具合も良くする。描画用のメディウムにこの樹脂を加えれば、画面に透明感と光沢を与えるとともに乾燥も多少速める。これはダンマルワニスのテレピンが揮発した時点で、樹脂がある程度固まった状態になるからで、油の方は乾いているわけではないが、この上に次の層をのせることができるぐらいにはなる。各絵具層同士の食いつきも良くし、絵具のノリが良くなると感じる。日頃絵具をのせ難いと感じている人は加えてみると良い。ダンマル樹脂は加熱して乾性油に溶かすこともできる。ダンマルの融点は種類によりまちまちだが、80℃ぐらいの比較的低い温度で溶解できる。その方法については、当サイトのメディウムを調合するで紹介してある。
最後に樹脂の名称の複雑さについて、”Plant Resins: Chemistry, Evolution, Ecology, and Ethnobotany”を参照しつつ整理してみる。ダンマルは東南アジアのフタバガキ科に属する植物が主たる採取源である。しかしその他植物の樹脂もダンマルと呼ばれることがあり、用語としてのダンマルは非常に曖昧である。”Plant Resins”によると、そもそもはマレー人が樹脂で作った燈火をダンマルと呼び、それが樹脂全般を指す言葉と転訛していったということだ。やがてヨーロッパと大規模な取引がされる中で熱帯アジアからの樹脂をdammarと呼ぶようになった。フタバガキ科の他、カンラン科(burseraceae)も挙げられている。カンラン科ではプロティウム属(Protium)、フタバガキ科では、サラノキ属(Shorea)が特に採取源として言及されている。サラノキ属には仏教寺院に植えられることで有名なサラソウジュ(沙羅双樹、学名Shorea robusta)が含まれる。なお日本の沙羅は、ツバキ科のナツツバキで、耐寒性の弱い沙羅双樹の代用として植えられた為に沙羅とも呼ばれるようになっただけである。ここからさらに複雑な話になるが、マレー諸島の東、乾燥した土地の生えるAgathisが、はじめdammaraという属に分類されたそうである。Agathisはコーパルが取れる樹脂である。植物の科、属、種などは随時更新されるので現状どうかはわからぬが、wikipediaを見たところでは、Agathis dammaraという学名の樹木もある。さて、Plant Resinsによると、この樹の樹脂を現地ではダンマルと呼ぶが、市場ではコーパルと呼ばれるものであると書かれてある。
マスチック樹脂
別称:乳香、英語表記:Mastic resin。
ウルシ科のカイノキ属、ピスタシア・レンティスカスの樹脂。常緑で雄雌異株であり、樹脂は雄株のものがよいという。地中海全般に分布するようだが、マスチック樹脂が生産されるのはキオス島、しかもも島の東南の角、Pistacia lentiscus Var. chiaが生い茂る箇所に限定されるようで、他の場所で採取されたものは、しっかり育った木から得たものでも質は劣るということである。「乳香」とも呼ばれることがあるが、フランキンセンスと混同されるおそれがある。ダンマル樹脂は巨大な樹木から大量に採取できるが、マスチックは涙粒程度の大きさでしか採れない。ダンマルに比べてかなり高価である。日本の画材店ではサンプル品のような小瓶が、千円以上することもある。東南アジアで採取されるダンマル樹脂は19世紀から使用され始めたので、それまで西洋絵画で使われていたのはマスチックだろう。使用法は、ほぼダンマル樹脂に準ずる。マスチックはテレピン、ペトロールに溶解するが、アルコールには溶解しない。湿気の多い環境ではブルーミング(白濁現象)が起こりやすいと言われる。そのため、日本の環境では向いていないと言われるが、それなりに湿度に気をつければ問題ない。ダンマル同様、マスチックを単体で使用した皮膜は脆いので、保護ニスやルツーセとして使う。ダンマルとの大きな違いは、画用液に添加した場合であろう。乾性油と混ぜるとチキソトロピーという性質を持つことがある。一見ゲル状に見えるが、筆で触ると液状になるのである。この性質は油彩画の細密な描写の際に大いに役立つと言われている。その性質を極めたのがメギルプであるいえるかもしれない。特にブラックオイルとマスチックの組み合わせはその傾向が強いように思われるが、普通の乾性油に混ぜてもゲル状になることがある。スタック法鉛白や、手練り絵具、そしてマスチック入りの画用液があれば人によっては最良の組み合わせといえるかもしれない。
コーパル
コーパルは硬質の樹脂で、そのままではテレピンなどの溶剤に溶けない。高温で処理するランニングを経ると、テレピン、ペトロールに溶けるようになる。しかし、ランニング処理を経たあとは真っ黒くなっているので、作ったニスはかなり暗い色をしている。絵具に混ぜると、この暗さはなかなか着色力のある暗さである。しかし、乾燥が速く硬質な画面を作るので、愛用している画家は多い。むろん単体で使用するのではなくて、画用液の一部に添加して使うわけであるが、ランニング処理した、いわゆる黒コーパル樹脂は供給が不安定で途絶えがちである。実際にはコーパル樹脂の愛用者は、ルフラン&ブルジョア社のシッカチーフ・フラマン・メディウムを使用していることが多い。この画用液にコーパルが含まれているようで、黒っぽい色をしている。それとは別にコーパルを亜麻仁油の中で煮て溶解させる方法もある。軟質なコーパルなら180℃くらいまで温度を上げると溶け出すようだ。焼コーパルのような黒さはないが、亜麻仁油を高温でボイルするため、ギラギラした画用液になるので、結局使用は避けてしまった。
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